プロローグ 一人称の語りを聴くということ
認定NPO法人健康と病いの語りディペックス・ジャパン
佐藤(佐久間)りか
「患者の語り」というときの「患者」とは誰だろうか?
私は8年前に乳がんの診断を受けた。自覚症状は全くなく、人間ドックでたまたま見つかったので、ぴんぴんしているのに「要精検」になったとたんに「患者」になった。しかし、それだけで「病人」になったと感じたかというと、そうではなかった。手術、放射線療法、化学療法、ホルモン療法とひと通りのメニューをこなしていくなかで、「病人になった」という実感がわいてきたのは、化学療法の副作用に悩まされるようになってからである。患者会のスタッフをしていた人から、「手術を受けてけが人になり、抗がん剤で病人になるのよ」という話を聞き、大いに納得したものだ。化学療法が終わって髪の毛もすっかり生え揃ったところで、私は「病人」を卒業した。そして今、3カ月に一度のフォローアップ検診に通う「患者」である。
この「患者」と「病人」というアイデンティティの揺らぎを、すべての乳がん体験者が同様に感じるわけではないだろう。がんのステージや本人の年齢、ライフコース上の位置、がんについての知識の量、死生観、生来の性格などによって、感じ方が違って当然である。ただ、患者と病人は必ずしも同一ではなく、その意味では「患者の語り」と「病いの語り」も似ているようで同質ではない、ということはいえる。
「あなたのご病気の体験についてお話を聴かせてください」と言われたとき、私は医療の枠組みの中で患者として体験したことについて語ることもできれば、がんという診断の前と後でどのように自分の人生が変わったかを語ることもできる。どちらも「私」という一人称で語られる物語であり、厳密に分けることは困難だが、私たちは語る相手によってその微妙な違いを使い分けている。医療者が「患者の語り」に触れるとき、この2つの側面があることを意識しておく必要があるだろう。
そもそも現代医学は「一人称」を扱うのが苦手だ。エビデンス・ベイスト・メディスン(Evidence-Based Medicine;EBM)という言葉が医療関係者の間で広く使われるようになってすでに四半世紀になるが、ここで尊ばれるのは「客観性」である。EBMは、実験や調査から得られた研究結果を統計学的信頼性によって階層化して、医療的実践の根拠とする「三人称」の科学である。そこでは患者は集団としてとらえられ、個人は数字に還元される。ランダム化比較試験のシステマティックレビューを頂点とするエビデンス・ピラミッドの中で、より一人称に近い「専門家の意見や考え」は「症例報告」の下に位置している。専門家の語りがそんなに低い評価しか受けられないのだから、患者の一人称の語りがこの階層の中に入る余地はない。
今後EBMはかなりの部分を、ビッグデータを活用したディープラーニングによって、AI(人工知能)が担っていくようになるだろう。AIに自我をもたせることができるか、という研究も進みつつあるようだが、自我をもたないAIに「一人称」はない。一人称をもたないAIは、データを集めることはできても、「語りを聴く」ことはできない。問診のようにデータをとることと語りを聴くことの違いは何だろうか。もちろん語る側の主体性に大きな違いがあるわけだが、聴く側も一人称でそこから何かを感じ取ろうとする姿勢があるかどうかが重要だ。AIは自動学習により知識を増やし、精度を上げていくことができるので、より正確に人間の心の動きを予測することができるようになるかもしれない。そうした予測をもとに一人称で患者に話しかけるようにプログラミングすることもできるだろうが、AIが病いの語りに感動したり、心を揺り動かされたりすることは(少なくとも当面は)ない。
第二次世界大戦に従軍した、ある著名な英国人医師のエピソードがある。この医師はドイツ軍に捕らえられ、収容所内で捕虜となった傷病兵たちの治療にあたっていた。ある晩、瀕死のソ連兵捕虜が病棟に運び込まれた。大声で泣き叫んでいたため、医師は周りの患者を起こさないように、彼を自室のベッドに寝かせて診察を行った。医師はロシア語がわからなかったが、両肺の空洞化を示唆するひどい胸膜摩擦音があったので、それが痛みをもたらし、叫び立てる原因となっているのだろうと判断した。しかし、手元にモルヒネはなく、アスピリンではほとんど効き目はなく、なすすべがなかった医師は思わず叫び続ける若い兵士を抱きしめた。するとその途端に兵士は叫ぶのをやめ、数時間後には静かに彼の腕の中で亡くなった。そこで医師は、その兵士を苦しめていたのは「結核性胸膜炎」ではなく、「孤独」だったのだと悟ったという。そして、自分が苦しみの原因を正しく診断することができなかったことを恥じ、長くその経験を誰にも話せなかったと振り返っている。
このエピソードはアーチボルト・コクランが晩年に記し、死後に出版された自伝的回顧録「One Man's Medicine: An Autobiography of Professor Archie Cochrane」(1989)の中にある。コクランはランダム化比較試験を用いた臨床試験を体系的に集め、吟味したうえで医療を実践することを推奨した、EBMの父とも呼ばれる人物である。まさに三人称の科学としての医学を推奨したコクランだが、ここでは一人の結核患者の最期を三人称の「症例報告」として記述するのではなく、死を目前にした患者の苦しみと孤独に「倫理的証人(moral witness)」として立ち会った自らの体験について、一人称で綴っている1)。症例報告なら「結核性胸膜炎」という診断に間違いはないのだが、あえて「それは誤診であった」と証言しているのである。
私たちディペックス・ジャパンが「健康と病いの語りデータベース」を立ち上げたときに掲げたスローガンは「患者の語りが医療を変える」である。これは単に「患者さんのお話をよく聴きましょう」といった「傾聴」や、より深い「患者理解」の有用性を訴えるものではない。私たちは「一人称の語り」が新たな「一人称の語り」を生み出す触媒のような力に魅せられており、その力が医療を変える原動力になると考えている。だからこそあえて、このプロローグも一人称で書かせていただいた。
医療者が患者の一人称の語りに耳を傾けるとき、医療者自身も「語り」に触発されて自分の中に生まれてくる思いや気づきを一人称で語る用意(自己内省)が必要である。患者の一人称の語りの中に、「患者の語り」と「病いの語り」があるように、医療者の一人称の語りにも「医療者の語り」と「病いに立ち会う証人としての語り」がある。この本がそうした「一人称の語り」との向き合い方の手がかりとなることを願ってやまない。
引用文献
1)Kleinman A.: The Illness Narratives: Suffering, Healing and the Human Condition. Basic Books, 1988. (アーサー・クラインマン著,江口重幸・五木田紳・上野豪志訳:病いの語り―慢性の病いをめぐる臨床人類学,誠信書房,1996.)